保呂羽山は、秋田藩八沢木村と亀田藩羽広村との藩境にあったので、しばしば境界争いが起きた。
元禄13年(1700年)、幕府の裁定により絵図面上で一応の決着をみたが、実地にそぐわない点が随所にあった。
そのため、その後も争いが幾度となく繰り返された。
文化10年(1813年)、両藩の関係者が立ち会い藩境に「盛塚」を築き、ついに藩境が決定した。
境塚は、全部で14箇所築かれた。旧道脇に残る塚は、蟹沢の見通し塚5つの「一番塚」である。
保呂羽山は、秋田藩八沢木村と亀田藩羽広村との藩境にあったので、しばしば境界争いが起きた。
元禄13年(1700年)、幕府の裁定により絵図面上で一応の決着をみたが、実地にそぐわない点が随所にあった。
そのため、その後も争いが幾度となく繰り返された。
文化10年(1813年)、両藩の関係者が立ち会い藩境に「盛塚」を築き、ついに藩境が決定した。
境塚は、全部で14箇所築かれた。旧道脇に残る塚は、蟹沢の見通し塚5つの「一番塚」である。