嘉永6年(1853年)正月3日の晩、保呂羽山波宇志別神社の別当守屋家屋敷(八沢木字宮脇)に、保呂羽山山開きの参詣人数百人が宿泊していた。
山に出発せんとする矢先、参詣者が持参した梵天の一つにろうそくの火が燃え移り、たちまち大火となり、雪囲いのため百余名が焼死した。
百人塚は、その七回忌供養の石塔である。
この火災により、守屋家は別当職と禄高を召し上げられ、岩館に追放の身となった。
嘉永6年(1853年)正月3日の晩、保呂羽山波宇志別神社の別当守屋家屋敷(八沢木字宮脇)に、保呂羽山山開きの参詣人数百人が宿泊していた。
山に出発せんとする矢先、参詣者が持参した梵天の一つにろうそくの火が燃え移り、たちまち大火となり、雪囲いのため百余名が焼死した。
百人塚は、その七回忌供養の石塔である。
この火災により、守屋家は別当職と禄高を召し上げられ、岩館に追放の身となった。